鳥になりたいです

感じるまま思索してスラスラ

非リア充のすすめ

 

休み時間机で突っ伏してる諸君、こんにちは。

君には周りがどう見えているだろうか?多分俺よりずっと優秀で、楽しそうだと思っているはずである。

結論を言うと、他人を羨んだり妬んだりしてる時間があれば、その時間君の心が踊る物を探し、それを享受し、出来れば実践した方が有益な時間を過ごせるし傷付いた分美しい人間になれる。何をするかは関係がない。ゲームでも、将棋でも、葉っぱ集めでも、サッカーでも何でも良い。また、それを続けていれば同志が見付かるので、今の寂しさだけで人を求めて行動するのはよそうではないか。

何よりも尊いのは自分自身の喜びであり、自分自身に喜びが無い人が人のためになんて言うのは間違いである。自分自身の充足を怠ってはいけない。

社交性のある彼等には彼等なりの苦しみや辛さがあると言えよう。この世に置けるマイナスの思考はおおよそ人と金によって引き起こされる。

生きている内に、私から見た私ではなく、人から見た私がクローズアップされていき、そして他人の思惑が最重要視される。

テストで良い点を取る、部活で活躍する、異性にもてる、大きな企業に内定が出されること、昇進など、人から目に見えてすごいと言われる事象を目の当たりにして、自分もそういう人間でありたいと思い努力をする。

そういう人間に共通するのは、その時点で私自身の喜びを他人に委ねてしまっているということで、それを得られれば彼にとって最上の喜びになるが、得られなければ絶望を心の中に抱え込むことになるのだ。

大体の人は華やかな社交に憧れを持つだろう。また、社会はそうある様に作られている。群れを作りその中にいると、認められた気分になり、心の空白と退屈や孤独を埋める。

私もいつかは華やかな社交に憧れ、人と会い、沢山の言葉を交わした。すると私の中に綺麗な向日葵が咲くのである。しかし、人と別れ、自分自身の孤独に立ち返った時、その向日葵はみるみる枯れ果てて行き、私はそれをどうにかしようとしてもどうにも出来ず、枯れた向日葵を見ながらごめんねと謝ってきた。

群れに紛れた時、うわあ疲れる帰りてえ一人になりてえと思う人がいると思う。私はそれを良い性質も持っているなと誉めたい気分になる。

人と関わると、君の意思に関係無く、理解出来ない思想や困難を勝手に持って来られるので自分が巻き込まれる危険が増える。そして、その対処を仲間としてやらなければならない。その数は関わる人数で相対的に増える。面倒で心を乱されても社交をやめないのは一時の向日葵がこの上ない程綺麗で、自分一人では花を咲かせられないと思うからではないだろうか。

仕事を辞めて私が気付いたことは、私の幸せがたったの5畳半で済むということで、元々好きだった本や音楽や映画が輝きを放って私に巣食うのである。すると、私の心の中に雨でも映える紫陽花が咲き、それは決して枯れずに残っているのである。皆の仲間に入りたいと思っていた時、仕事をしていた時、私の精神状態は荒れに荒れていたので、私の持っている財宝が霞んで見え、真に享受することが出来ていなかった様に思う。

本を読み、曲を聴き、ギターを弾いて、曲を書き、歌って、文を書き、映画を見る。私の人生にそれ以上はないのだ。

ただ、孤独と言うのはよっぽどの孤独好きでないと耐えられない瞬間があり、しっかり逃げ道を作らねば損であると思う。どんな思想を持ってても理解しあえる人と言うのは必ずいる。それが見付けやすいか見付けにくいかの差だけである。

私は自分を中々やばい奴であると思っているのだが、拒絶せず、情を持って接してくれる人がいる。とても愛している。

君が無理をするような社交を避け、一時の花に惑わされず、君自身の財宝と愛を見付けて欲しい。

ちなみに金で苦労することは、無かったら人で無くなり死ぬということだけであると思う。沢山は必要ない。だが沢山有るに越したことはない使い捨ての道具である。